ゆったりたどる 窪川のむかし

ゆったりたどる 窪川のむかし ~縄文時代から近代まで

 窪川には、縄文時代から弥生時代の生活の跡があり、古くから開けていたことを物語っています。高知県内で出土した約40本の銅矛のうち、半分が窪川から出ていて、この地が弥生時代後期頃、周辺地域における政治、文化の中心だったこともわかっています。
 
 16世紀末に再建された四国八十八ヶ所第三十七番札所・岩本寺は、平安時代に弘法大師が創建したといわれる福円満寺が前身とされています。

 さて中世、1468年、京の都から一条教房が中村へ入った32年後の1500年、相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)から山内備後守宣澄という豪族が窪川に入国し、茂串山の山頂に茂串山城を築きました。

そしてその麓に土居(防御などを考慮した戦略的住居)を構え、この地の集落名であった「窪川」を姓として、窪川氏を名乗りました。

 当時の窪川一帯は「仁井田の庄」といい、伊予(現在の愛媛県)から来た豪族である東氏、西氏、志和氏、和歌山から来た西原氏、そして鎌倉から来た窪川氏の「仁井田五人衆」や、常陸国(現在の茨城県)から土佐に入り、久礼(中土佐町)を本拠地にしていた佐竹氏、奥州(現在の岩手県奥州市)から来た南部氏などの、いわば「Iターン豪族たち」による群雄割拠の状態にありました。

 窪川氏は、仁井田五人衆の中で「最強・最大」といわれる勢力を誇っていて、他の豪族同様、中村の一条氏の配下にありましたが、一条氏が長宗我部氏に滅ぼされたことにより、その後は長宗我部氏の配下となりました。

しかし、長宗我部氏の命により従軍した「文禄の役」で、一族の後継たちが全て戦死し、窪川氏は断絶しました。

 窪川氏断絶後は、長宗我部氏の家臣が城を引き継いだものの、関ヶ原の合戦により長宗我部氏も滅亡。

土佐の国には、新しく山内一豊が入国し、1601年、一豊は、交通、物流、軍事の要衝である窪川の地に、その家臣林勝吉を派遣しました。

勝吉は一豊から「山内」の姓と「一」の文字を許され、山内一吉と名乗り、土佐藩三代家老の権限を与えられます。

そして一吉は、茂串山と対峙する古渓山の山頂に古渓城という山城を築きました。南麓には、周囲を土塀で囲った土居を建設し、土居前の吉見川に橋を架けて、家臣たちを住まわせました。さらに、商人たちを集めた通りを作り、城下町としての整備に励んだといいます。

 古渓城は、1615年の「一国一城令」により廃城。また、窪川山内家も六代を最後に後継がなく、1717年に断絶しました。その後、明治2年まで、在番役といわれる藩の役人が置かれるなどして統治されていました。

 明治以降、日本が近代化されていく中、宇和島街道と中村街道の交差点、さらには太平洋側の港町との往来の拠点として、人や物、情報などが行きかい、様々な文化が交錯する街として歩んできました。

 1916(大正5)年頃には久礼―窪川間に乗合自動車が走りはじめ、1951(昭和26)年、土讃線の多度津―窪川間が全通し、町民の悲願であった土讃線窪川延伸が達成されました。

おすすめの記事