岩本寺遍路石 高田屋嘉兵衛

前回のクイズです。
岩本寺にある小さな遍路石に「高田屋嘉兵衛」と彫られています。昔、添蚯蚓坂(久礼坂ができる前)にあった海月庵に奉納されたものです。
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右側の小さい遍路石です(高さ50cm弱)
高田屋嘉兵衛さんは、北前船を操って函館の基礎を築いた豪商であり、また日本を救ったとっても偉い人です。
では、何から日本を救ったんでしょうか??
①蒙古大帝国:ジンギスカン
②アメリカ
③ロシア
④清
答え ③ロシア
(^O^)/ 今回は、日本を救った英雄のお話です!!
岩本寺の小さな遍路石には、次のように書かれています。
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※お気づきの方もいらっしゃると思いますが、これは、道しるべとしての遍路石ではありません。
 高田屋嘉兵衛が、海月庵の建物を建てたという定礎板(?)です。
本来は、添蚯蚓坂(そえみみずさか)にあった海月庵という庵寺に置かれていたものです。
江戸末期までは、1~2人のお坊さんがいて四国八十八か所のお遍路さんのお世話をしていたそうです。
明治の廃仏毀釈により廃寺となってしまいました。国道56号線が久礼坂を通るようになって残されていた「遍路石」を村の若い衆(?)が岩本寺に運んだそうです。
この庵寺を立てた高田屋嘉兵衛という人を知っていますか?
ロシア帝国と日本の紛争危機を回避させ、日本を救った英雄です。
スケールが大きすぎて・・・2回ほどに分けます!!
すぐ知りたい人は、司馬遼太郎著 「菜の花の沖」全6巻 を読んでください。
手に汗握る冒険とラブストーリーと歴史小説が一緒になったような本です。
一気に読み終わります。途中、4~5巻辺りの歴史背景で少ししんどいかも・・・・・・
【その1】:高田屋嘉兵衛とP.I.リコルド
高田屋嘉兵衛が活躍したのは、江戸時代末期、かの坂本竜馬が生まれる20年くらい前になります。
江戸幕府は、鎖国政策を取り、他国人の入国、外国船の入港を禁止し、対外貿易を許可しませんでした。自国人が、出国外国の方と接触するのを禁止し、これを破るものには厳しい刑を処せられました。
このような時代背景下、
1811年V.M.ゴロヴニン艦長とP.I.リコルド副艦長指揮下にあるディアナ号が、国後(クナシリ)島を訪れました。
ディアナ号は、ロシア皇帝直属の調査船で千島(列島)諸島の正確な位置を記録し、その海岸線を地図に載せるを任務としていました。
 
【皇帝直属調査船ディアナ号データ】
全長27.3m 全幅7.5m 排水量300トン 三本マスト 
19世紀のロシアスループ艦
乗組員 約60名
装備
口径6ポンド大砲    14門
口径8ポンドカルネード砲 1門
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P.I.リコルド著 斎藤智之訳  対日折衝記より
右側の本の表紙の写真 イケメンのリコルドさんです    
1806年からゴロヴニンとリコルドは、大西洋、インド洋、太平洋という三つの大洋を航海し、すでに2年間太平洋北部の海洋測量研究に携わり,カムチャッカ、アラスカ、アリューシャン列島、千島列島、ウダ川までのタタール沿岸とシャンタル諸島の海岸線起伏を調査していました。
しかし、18111年7月11日、国後島調査中ゴロヴニン艦長含め8名の乗組員が、捕虜として日本側にとらえられました。
これは、ロシア人レザノフ配下のダヴィドフとフヴォストフが、艦船・商船を襲い海賊行為を行い、日本人集落を攻撃・略奪したことによる報復措置でした。
すぐさまリコルドは、日本の沿岸砲台に対し約170発の砲弾を叩き込み、これをせん滅しましたが、以下の理由によりそれ以上の戦闘行為に移ることができませんでした。
①湾の水深が浅く、本陣に対し的確な攻撃ができない
②リコルドを含めて乗組員は、たった51名であった
③戦闘状態になった場合、海洋測量で得られた重要な資料が失われてしまう可能性があった
体制を立て直し、上層部への報告を行うためにいったんカムチャッカに引き返し、翌年、ディアナ号は、随行艦ゾーティック号を伴って再度国後沖に現れます。
今回は、漂流民である日本人を数名連れており、それらのリーダー格の良左衛門に通訳と捕虜の解放交渉を行わせることにしていました。
リコルドはこの人物をあまり信用していませんでしたが、彼しかいないという現状がありました。
案の定、交渉は進まず「ゴロヴニン艦長以下8名は死んだ」という報告がありました。本来であるならばすぐさま報復行動に移ってもおかしくない状況でしたが、リコルドは、この報告を信用できずさらなる情報収集を国後沖で行っていました。
1812年8月13日、そこへ高田屋嘉兵衛が乗船していた北前船「観世丸」が通りかかります。
高田屋嘉兵衛は、身ぶり手ぶりで「ゴロヴニン」は生きているとリコルドに説明しますが、信用されず嘉兵衛以下6名はカムチャッカに連行されてしまいます。
8月17日 解放された「観世丸」は、「命を惜しまず日本のために尽くす」、平和解決を試みる旨の嘉兵衛の手紙を持って函館に急を知らせます。
ディアナ号は、カムチャッカに帰港する途中、暴風雨に会い歯舞諸島水晶島付近に流され、あわや座礁かと思われた時、「帆を下げて錨を下せ」と嘉兵衛は身ぶり手ぶりでリコルドに伝え難を逃れたといいます。嘉兵衛とリコルドは言葉が通じないが、リコルドは、嘉兵衛の毅然とした態度に接し嘉兵衛にへの信頼を強めていく、嘉兵衛も事態打開のためできる限りの努力を覚悟する。
カムチャッカに到着した一行は、リコルドと同じ宿舎で暮らすことになります。ひとつ屋根の下で暮らすことにより嘉兵衛とリコルドは双方とも信頼関係をより深めていくことになりました。また、宿舎に住むロシア人少年と話すことによりロシア語を少しづつ覚えて行きました。
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兵庫県洲本市五色町 ウエルネスパーク五色 歴史文化資料館 菜の花ホール
この年6月、フランス皇帝ナポレオン1世がロシアに侵攻していました。
囚われの身ながら嘉兵衛はリコルドに対し卑屈な姿勢を見せなかった、両者は会談度繰り返しながら互いの信頼関係を強め、日露双方に非があったことを認め合う。
1813年5月26日 ディアナ号は、嘉兵衛以下3名を乗せて国後島に到着する。6名中3名は、カムチャッカにて病気のため亡くなっていた。また、嘉兵衛も体調を崩していた。
リコルドは、嘉兵衛たちを上陸させ、幕府側役人とのロシア人捕虜交渉を任せた。嘉兵衛とリコルドの信頼関係は高く友情のような心も芽生えていた。
ゴロヴニンの釈放の条件は、ロシア政府の正式な謝罪と略奪品の返還であった。リコルドは、日本側が要求した文章を用意するため7月14日カムチャッカに向け帆を上げた。9月17日ディアナ号は、函館に来航した。
9月26日ゴロヴニンらが解放されリコルドに引き渡された。
1813年9月29日 薪炭・水・食料を積みこみディアナ号は、嘉兵衛らの見送り受け、一路カムチャッカへと・・・・
ディアナ号船上では、乗組員が整列し嘉兵衛に「ウラー タイショウ―」(万歳 大将)と
それに答え嘉兵衛は、 「じぃあな うらー」
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五色町 ウエルネスパーク五色 日露友好の像
参考資料
司馬遼太郎著
 「菜の花の沖」全6巻   
小学館発行
  週間歴史の道47 高田屋嘉兵衛 北前船と択捉航路  
P.I.リコルド著 斎藤智之訳
  対日折衝記    
クニ・トシロウ画
  北海を翔ける男  
林一将著
  窪川岩本寺境内にある「遍路石」を寄進した豪商高田屋嘉兵衛について
ポヨヨ~ン!ポヨヨ~ン!
では、今回のクイズです
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貧しい農家の長男として生まれた嘉兵衛さんは、努力して27歳の時に「辰悦丸」という和船を持ち船として建造します。この船は、何石積みの船だったでしょうか??
ヒント)当時、幕府が許可していた最大は、1500石でした。
①1000
②1400
③1500
④1200
では、(^O^)/
ああ~しんど!!次は、もっと短くできるといいなあ~

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